試し読み

 『神』である私が最期に願ったことは、大切な人たちの穏やかで幸せな暮らしが続くことでした。永く眠る『体』と、『心』は離れ離れになって、『わたし』はきっと朽ち果ててしまうことになるでしょうが……決して後悔はしていません。
 共に生きるすべをあの時代、あの頃の私にはわからなくて、このような結末を迎えてしまったけれど……貴方と過ごした日々を私は宝物にします。

『家宝』とあがたたえられた私ですが、その私の宝物は貴方と過ごした日々の記憶です――

   第一夜

 目が覚めたら、いつも通り体が重かった。白の薄いカーテン越しの光は春の暖かなもので、冬眠から起こされる爬虫類はちゅうるいはこんな気分なのだろうか、とぼんやりと思う。
――早く綺麗な水を……。
 あまりの体の重さに、少女は眉間にしわを寄せながら体を起こす。昨日のうちにんでおいた井戸水をペットボトルに入れて祭壇の横に置いていた。早くそれを『本体』に供えないと、と布団から這い出ながら五百ミリリットルのペットボトルを片手によっこらせ、と立ち上がった。寝衣のそでを左手で押さえ、神棚の盃に丁寧に注いだ。水の流れ落ちる音と共に、少し体が軽くなる。
――守人もりびとがいないと朝が辛いなぁ……。
 祭壇を仰ぎ見ながらそう思う。
――自分で『自分』をまつってるって、あまり聞かないもんね。
 腰をとんとん、と軽く叩いて、少女は白い無垢むくの寢衣を脱ぎ、ジーパンと白のシャツに着替える。黒の石がトップについた首飾りをシャツの外に出して、ふと、自分の右手に視線を落とすと、微妙に透けて――向こう側にあるコタツの花柄の布団が見えた。
「まずい……今月はまだ一個しか『願い』を叶えられてないからかな……」
 呟くように言う。とにかく体が重かった。頭も重く、鈍い頭痛が常に付きまとっている。少女は大きく息を吐いて、祭壇とは別にある平机に置かれた写真を見る。白髪の線の細い老人がすました顔で写っていた。

『いいですか、遙鏡ようきょう様、『鏡』の『神』である、あなた様の『神格』は上から九番目、下から三番目です』
「それって低いってこと、よね……?」
『そうです、あなた様は永く永く眠っておられました。普通ならば万事漲ばんじみなぎって目覚めるはずが、本体にヒビが入っておいでだ。神の存在を司る『神力しんりき』が非常に弱っております』
「『神力しんりき』を取り戻す方法ってあるの?」
出雲御社いずもおんしゃの規定では、弱い『神力』の神でも一ヶ月三個願いを叶えたら出雲御社から『神力』の配給を受けることができます。それが受けられないと……』
「『格』が落ちるってこと?」
『そうでございます。他にも『神力』を回復する手があったようではございますが、守人もりびとの私共の言い伝えではよくわかっておりません』
「『格』が全部落ちたらどうなるの?」
『恐ろしいことを申されますな。『神』として、いられなくなれます』
「『人』になるってこと?」
『人になるものもおれば、物の怪になるものもいる、と聞いております』

――全く恐ろしいこと言い残して一人さっさと死んじゃって……!
「もう、春文はるふみのバカ……」
 写真を見ながら、少女は――藤原ふじわらはるかはそう言った。言葉の意味とは裏腹に、淋しさのようなものが込み上げていた。頬に一筋涙が伝って、それを透けた手で拭った。
「今日はいつもより範囲を広げて、叶えやすそうな『願い』を探してみよう……」
 そう気持ちをしっかり奮い立たせ、黄色のトレンチコートを羽織って、スニーカーを履いた。自分をまつって守ってくれた守人もりびとはもういない。『人』になるのは悪くないけれど、物の怪になるのは嫌だ。今日は平成二十八年・弥生二十日。弥生が終わるまで、あと十日――それまでに何とかあと二個願いを叶えないと、と遙は重い体を引きずって、春のうららかな陽射しに包まれた、それでいて空気は冷ややかな町へと足を進めた。

 藤原ふじわらはるか、と名乗って、二十年くらい経つだろうか。
 『藤原』は守人もりびとだった藤原ふじわら春文はるふみの『藤原』を名乗った。遙は『本体』の名から一文字取って訓読みさせたものだ。永く永く眠っていた私は――どうやら年代不詳の和鏡らしい。守人もりびとだった藤原家が『家宝』とし代々祀り、まさか『本体』から離れて『神』である私が起きるなどということは、古い言い伝えの中にある御伽噺おとぎばなしの一つくらいで、実際に起こることとは考えもしなかったらしい。
 月明かりに永く照らされて、私は目覚めた。気持ちのいい目覚めのような、長い導線をぶつっと切られたような、そんな目覚めだった。時代は鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、と移り変わって――平成。八百万やおよろずの神、と神々をあがたてまつった時代は遠く過ぎ去り、『人』が人と人の為の『社会』を築いていた。昔を覚えていない私にとって、それに違和感はない。疑問もない。あるのは淡々と過ぎる日々と、弱まり回復しない『神力しんりき――これのせいで体が重い。目覚めたときはもう少し体が軽かったはずなのに……最後の守人もりびとである春文はるふみが死んで、この半年ほどがひどかった。
――春文はるふみは『本体』にヒビが入ってるから、って言ってたけど……。
 遙は黄色のトレンチコートのポケットに手を突っ込み、スニーカーの足をしっかり踏みしめ歩いていた。もちろん『神』だから飛べる。ふわっと飛べる。でも、飛ばない。あれを使うには『神力しんりき』がいる。
――それに私、高所恐怖症だし。
 自分に言い訳するようにそう言って、道にあった小さな石を端に蹴った。コロコロと跳ぶように転がって、跳ねて、そのまま側溝の中に落ちていく。遙にはヒビが入る前の記憶は、つまり永い眠りにつく前の記憶はない。何故、ヒビが入ってしまったのか、眠りにつかなければならなかったか、という理由もわからない。守人もりびとである春文はるふみも、生前、それは伝え聞いていない、と言っていた。
――全く、眠る前の私、一体何をしてこうなったのよ……おかげで目覚めてから大変なんだけど。
 弥生やよいのまだ冷たい風がびゅっと一瞬のうちに吹き抜けて、少女は――はるかは顔をしかめた。遙の髪は明るいモカベージュのカラーでくるくるのパーマがあててあり、所謂いわゆる、ゆるふわな女子の髪型をしていた。そのふわふわな髪を春風にさらわれて遊ばれて――そのまま顔に打ち付ける。こんなことなら長いのをくくっていた方がマシかな、と手で何とか整えて――目覚めた時は腰まである長さだったが、春文はるふみが死んでから、あることを理由にばっさりと切った。『人』の暮らしに興味を持って働くようにもなった――日々の供物を用意するために『お金』が必要だったのが一番の大きな理由だったが。ただ、家でじっと、まつられているだけの生活は――守人もりびとだった春文はるふみのことを思い出して淋しくなるだけだった。とにかく、違う世界を見よう、とそう思って『外』に出た。
 そこで、遙はスニーカーを履いた足を止めた。遠くて近いようなところで、『声』がする。物理的に飛んできた声ではなく、直接頭に響くこれは……